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さらに東行するところで、亀の甲に乗る者に会いました。おそらく海人集団の長だったのでしょう、神武天皇は「汝は海の道を知れりや」と尋ね、東征の一行に加えました。そして、河内まで瀬戸内海を海路で進軍したのです。しかし、大和地方の土着勢力は強く、戦況は不利に展開します。そこで神武軍は「日の神の御子として……日を背中にして戦おう」と、いったん南下して熊野に入り、大和へ隆路で北上しました。この結果、神武軍は上着勢力に戦勝し、大和の地に天皇王権を樹立しました。
ヤマトタケル
神武天皇を初代として第12代の景行天皇の3人の皇子の1人にヤマトタケルがいました。ヤマトタケルは気性が激しく乱暴だったので九州南東部の平定を命じられました。使命を果たし「山の神、河の神、海峡の神をみな平定して」帰還したヤマトタケルですが、しかし、続けて東国平定を命じられました。これは父に嫌われている、と思ったヤマトタケルは憂鬱な気持ちで東征に発ちました。
最初の難関は相模(あるいは駿河)の草原で焼き討ちにあったことです。このとき、炎の中でヤマトタケルは妃の名を叫びながら「草薙の剣」で草を刈り払い、向い火をつけて難を逃れました。
ヤマトタケルの妃はオトタチバナといいました。横須賀の走水から房総半島に渡っているとき海が荒れ、船の航行が危険になりました。愛する夫を守るため、妃は海峡神を鎮めようと入水します。「妾、御子に易りて海の中に入らむ」と。そのときに詠まれた歌は:
さねさし相模の小野に燃える火の
火中に立ちて問ひし君はも
7日後、妃の櫛が走水の岸に上がったそうです。「吾妻はや」、関東一帯を平定して帰還するとき、妃の沈んだ海を振り返って嘆きました。以来、東国をアヅマと呼ぶのだそうです。海が行げば
休まることのない遠征に疲労したのかヤマトタケルは三重県鈴鹿で倒れます。このとき故郷を偲んで詠んだ歌には胸を打たれます。
大和は国のまほろば
たたなづく青垣、
山こもれる 大和し うるわし
ヤマトタケルはそのまま不帰の客となりましたが、魂は白鳥となり人空を翔けました。みな涙ながらに白鳥の後を追いました。白鳥が海へ飛ぶと皆も海に入って走りますが、なかなか思うように足が進みません。
海が行けば腰なづむ大河原の植草、海がはいさよう(海をいくと腰がとられる、海を行くのはもどかしい)
この歌はヤマトタケルの葬儀に歌われた四歌の1つで、天皇の大葬でも歌われていたそうです。
海の軍神一神助皇后
ヤマトタケルの異母兄弟が父の後を次いで成務天皇になりましたが、『古事記』での記述はヤマトタケルと比べると何分の1もありません。その次代の仲哀天皇もそうです。まるで、後に現われる神功皇后というスーパーウーマンと、その胎中よりすでに天皇であった応神天皇の前座のような扱いです。
神功皇后は女性ながら海上の軍神のような存在で、夫の仲哀天皇に神の御告げとして朝鮮半島出兵をうながします。また、神功皇后は自分の胎児こそ次期天皇である、それは「アマテラス大神の御心なり。また、底筒の男、中篇の男、上筒の男三柱の大神なり」と主張します。ここで高男系(住吉神社系)の海神を引用した点に注目したいところです。
朝鮮半島へ向けて出港した神功軍には「海原の魚とも、大きも小きも、ことごとに船を負ひて渡りき」とありますが、これは海神、つまり海人の全面的な協力を得たということでしょう。
神功皇后は伝説上の人物とされていますが、その権力と行動力は後に女帝・持統天皇に具現されます。その持統帝を讃える歌を:
おほきみは神にしませば真木の立つ荒山中に海をなすがも(『万葉集』241)
参考文献
1)梅原猛『海人と天皇」(上・下)新潮文庫
2)大林太良編『日本の古代3』中公文庫
3)武田祐吉訳注『新訂古事記』角川文庫
4)大城戸忠『応神天皇と三皇子』東海大学出版会

 

 

 

 

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